第1回 桜門卓話会「津覇車輌工業100年企業への歩み」

1.主題 「津覇車輌工業100年企業への歩み」

2.出席者(順不同,敬称略)
  卓話(話題提供者)
    津覇車輌工業株式会社 専務取締役 津覇 良夫
    津覇車輌工業株式会社 執行役員船橋工場長 津覇 誉
  桜門工業クラブ
    大内 達史 理事長, 西倉 努 副理事長, 島 雅裕 事務局長,
    村木 義男 総務委員長,平 一暁  広報委員長,大久保 通則 副理事長(司会)

3.開催日 令和元年(2019年) 10月23日(水) 午後

4.開催場所 津田沼

【第1回桜門卓話会】

5.卓話会の要旨

(司会)
 本日はお忙しいところ、第1回桜門工業クラブ卓話会にご参集を頂きましてありがとうございました。物事にはすべて動機がありして、この会を開催する経過を説明させていただきます。本年8月に津覇車輌工業株式会社の船橋工場に、島さんと大久保(司会者)が訪問させて頂いたことが起点でした。そして津覇良夫様から、生産工学部(工業経営学科)の同門であることをお聞きし驚きました。話が盛り上がり島さんから、さらに深堀のお話を拝聴したいとの提案がありました。一方,津覇誉様から100年企業というキーワードを頂き、今日の桜門工業クラブ主催の卓話会の開催に至りました。最初に大内理事長からご挨拶をお願いします。

(大内理事長)
 桜門工業クラブ理事長の大内です。本日は、ご出席を頂きましてありがとうございました。私はこれまで、全国組織である、一般社団法人日本建築士事務所協会連合会会長を始めとして会社経営や校友会等を通じて日本大学のために貢献してまいりました。桜門工業クラブは昭和48年2月に、藤田一暁会長のもとに創設されました。そして、吉田喜市会長、清野茂次会長へと連綿として引き継がれ今日に至っております。私の代になりまして、理工系4学部の卒業生を主体とする組織から、日本大学の全ての卒業生を対象として、広い分野の皆様の参画を図ってまいりました。そして、若手の会員も増強しております。私は、建築の分野ですが狭い領域だけでは時代に対応することが困難であると考えております。
 現在、桜門工業クラブではフォーラムを開催して広い視野を醸成しております。本年12月10日には、向かいの席におられます平さんより、「芸能マネージャから転身したシロアリ博士が語る戸建住宅の落とし穴」と題してフォーラムが予定されています。本日ご参集頂きました新企画の卓話会は、参加者の皆様が双方向で自由に意見を述べ合うことが出来るものと考えます。そして、異分野の交流という役割を果たしてくれるものと期待しております。現在、それぞれの会員は個々の分野で卓越された力量をお持ちですが、桜門工業クラブとして共通認識を高めた総合力を発信することにより日本大学に貢献できるものと考えております。本日はなごやかな卓話会となるようにお願いいたします。

(司会)
桜門工業クラブは、46年の歴史を重ねております。桜門工業クラブの共通認識は、「日本大学で学んだ」が起点となっております。大学では体験や経験から学び、挫折や失敗を糧として社会に役立つ能力を涵養することが必要であると考えます。卓話会は、事前に桜門工業クラブより、津覇様ご両人に話題提供の希望をお伝えしてあります。本日はこの話題を卓話形式で拝聴してゼミを意識した座談会を進めて参りたいと考えております。

 

(1) 卓話 津覇 良夫 様

① 創業者(津覇 実良)の紹介
 当社の創業者である父:津覇 実良は、1900年に沖縄に生まれました。中学卒業後、当時、溶接の最先端だった長崎の三菱造船所に入社し、電気溶接から始め、1級の技能資格も取り、優秀な溶接工として活躍しました。また、数々の実績を残された佐々木新太郎先生とは入社した年も同じこともあり、特にご指導を受けていました。東京へ上京する際は、佐々木先生より溶接学会初代会長の孕石元照先生を紹介され、独立するまでお世話になりました。1932年、津覇製作所を設立し、工事の請負と溶接棒の製作に着手し、特に早大の鶴田明先生(溶接学会26期会長)にご指導を受けていました。

<S44年 オキナワグラフより>

② 自己紹介(津覇 良夫)と津田沼校舎での思い出
 私は、5人兄弟の次男として東京の小岩に生まれました。小学校時代から悪餓鬼でしたが、中学に入ってからはスポーツに興味を持ち卓球に専念し、高校2年(日大一高)の時、キャプテンとしてインターハイ(青森開催)に出場し、良く面倒を見た一つ後輩の中西義治は全日本ジュニア選手権で優勝するまでに至りました。その後、講道館で柔道をするようになり、また、高校生より日大空手部(水道橋)にも入部し、何れも初段・2段を取得するまでになりました。
 大学は生産工学部(工業経営学科)に入学し、津田沼校舎では製図と実験以外は、マージャンにひたむきに打ち込んでいました。生産工学部卒というよりは、マージャン学部卒と言ったほうが適切でしょう。
 卒業後は、即、津覇車輌に入社し、製造部で3年ほど現場に従事し、その後30歳頃からは、先輩の従業員がいたものの、徐々に、また、必然的に、対外交渉(営業)にも携わり、工場製作部門の中心で業務を行うようになりました。今では、考えられない勤務ではありましたが、引き合いの案件を〈見積~治具の製作~作業指示(納期-品質-採算)~納品〉まで行い、旨くいった時の“最高の満足感”は格別で、これに勝るものはないといったものでした。
 昭和38年には、世界の建設機械メーカーであるキャタピラ社と、当時の発注元であった三菱重工が合弁会社でキャタピラ三菱となり、その後、当社の継続受注の70%を占める得意先になり、以来、50年以上も継続したが、5年前に主力だったブルドーザの生産拠点が日本から海外に移管されました。
 この半世紀の間、私は、アメリカに本社のあるキャタピラ・トラクター社へ研修で約2ヶ月間行ったり、日中友好協会(当時,田中角栄氏が会長)の関係で中国訪問をしたり、海外の研修生の受け入れの為に、スリランカへも2度ほど訪問し、今度は、スリランカの外務大臣アマルテュンガ氏が当社に来社したこともありました。

 

 

 

 

 

<スリランカの外務大臣 来社>

③ (故)水田三喜男大臣との思い出
 創業者の父(津覇 実良)がどういう切っ掛けで、当時の水田三喜男大蔵大臣のご支援を受ける様になったかは分かりませんが、当時、1ドル360円の固定相場制が変動相場制に変わるときの特使として渡米する直前に来社し、色々とお話をして下さった事が記憶に残っています。数ヶ月に1回は父が食事の接待をしていた時、私もカバン持ちで同席したことが懐かしく思います。大臣は、ウィスキーのオールドパーがお好きな様でした。そう云えば、あの田中角栄総理も、現在、私が最も親しくして頂いている元大臣で現在も東京都の最高顧問の深谷隆司先生も、オールドパーとワインがお好きな様です。

< 水田三喜男大臣 来社 >

< 親交の深い 深谷隆司大臣 >

④ 業界の変遷
 グローバル経済になってから、すべての業界は国内の賃金基準の何拾分の一の国からの価格競争で、デフレ経済は修正できず、我々の会社の様な中小企業は、第3次産業だけでなく、『大廃業時代』とよばれ、来年1年で31万社の廃業が予想されている様です。

 

⑤ 創業者からの伝承
 特別の経営方針指示はなかったが、ちょっとした日常会話で、私が、先々2部上場をめざし頑張っていた時、『会社が大きくなったら、自分の会社でなくなるよ。』と度々言われていた記憶があります。
 明治の人なので、私的な物の考え方は、反面教師的な所が多かったが、非常に情の深い人だった様に思います。そういう事例が多々ありました。
 ※殆どの大企業の『雇われ社長』は、在任中の業績が悪化すれば、首になることから、業績の数字悪化を防ぐ考えを第一に社内だけでなくシビアな外注政策を取り、国家予算の1/3以上の内部保留に努め、結果、景気の動向にも悪影響を与えています。

 

⑥ 溶接の魅力
 溶接の『魅力』という感覚はなく、むしろ、今後も含め、困難であり、作業者のモラルが必要な重要な作業という感覚です。幾つもの設定条件で、その施工と施工結果が残ってしまう。
 作業者のモラル-作業者のレベル-電流電圧の設定-屋内・屋外の設定-作業前のワークの清掃レベル-ビート外観のウェイトのかけ方-ワークの歪対策-施工姿勢-ポジショナーの有無・・・他

<S55年 オキナワグラフより>

 

(2) 卓話 津覇 誉 様

① 自己紹介(津覇誉)と理工学部での想い出
 1972年、沖縄返還の年に、私は福島県の会津に生まれました。昭和から平成になるころ会津高校から旧福島県尋常中学校である安積高校に転入しました。この学校の旧本館は現・安積歴史博物館であり、国の重要文化財でもあります。
 大学は、“物理学科以外ない”と中学生より決めていた為、日本大学理工学部物理学科に入学しました。1、2年生は、習志野キャンパスだった為、津田沼の近くの船橋市前原に下宿しました。その下宿先の大家さんは、沖縄出身であり、当時85歳の加瀬おばあちゃんでした。このおばあちゃんの息子さんと専務が同級生とのこともあり、最終的に婿養子のご縁につながりました。私の理工学部の思い出は、3,4年生の駿河台キャンパスです。色々なことに興味を持っていたせいか(ただ飽きっぽいだけなのか?)、大学の勉強は控えめにしておりました。ただ、友達とのミーティングは大切にしていたので、5号館の向かいにある喫茶店ルノアールに、教室以上によく通っていました。卒研では、低温物性の超電導研究室に所属し、久保田先生にご指導いただきました。同じフロアの研究室には高野先生も居られ、つまみに”くさや”を焼いたら、6号館中が”くさや”の臭いで充満し大騒ぎになったことをいい思い出として覚えています。また、当時出来たばかりの八海山のセミナーハウスに研究室のメンバーと行ったことや、青駿祭では実行委員としてのめり込んでいたこともありました。

 

② 津覇車輌へ入ってから
 結婚してから1年後の2001年に津覇車輌に入社しました。それから2年間は現場でモノづくりに励んでいました。当時、鉄を知らなかった私は、職人さんのマジックに魅了されていました。事務所に入ってからは、大型案件である全国展開の広告塔工事の担当者になり、電通とJVを組むなど色々と勉強になりました。船橋工場はキャタピラの製品が主力ですが、私の場合はそれ以外の案件を営業から納品まで行うスタイルでした。色々なことをやってきましたが、基本的には“どんなこともプロフェッショナルである”ことを信念としていました。鉄・溶接にのめり込んだのは、キャタピラの仕事はあと数年でなくなるという時でした。改めて勉強してみるとその奥深さに魅了されました。金属の世界、鉄の世界、鉄はエネルギー的に一番安定であることなど・・・

 

③ 未来への使命
津覇車輌は、あと13年で、創業100周年を迎えます。それは、私が60歳になる時、そして、沖縄返還から60年を迎える時でもあります。関係のない会津の地で生まれた私ですが、何か大きな縁があってこの会社にいます。そして、偶然でもありますが、創業者の戒名に“誉”の文字が使われていると知った時は、感慨深い思いになりました。
 創業100周年へ向けて、どうあるべきか、どうすべきなのか、そして、何処へ向かうのか、大事な岐路に立たされています。ただ一つ言えることは、創業者の思いと、それを継いできた経営者の思いの上に、次のステージがあることです。そのステージの上に新たな技術を重ねていく、そう、歴史あるDNAを持った技術と新たな技術を溶接して繋いでいくことが私の使命なのかもしれない。

 

(3) フリートーキング

(司会)
 本日は興味ある卓話を頂きましてありがとうございました。これからフリートーキングと称しまして、自由なコメントを頂戴いたしたいと存じます。議事録には、その概要を記載させて頂きたいと考えております。

*創業者の津覇実良様は、わが国の近代溶接の先覚者のお一人である佐々木新太郎先生とご交誼とご指導を受けておられます。そして、1932年には津覇製作所を設立され、今日に至っております。時代背景として、沖縄返還が1972年であることより、途轍もない試練を背負われて時代を開拓したことに敬意を表します。

*津覇良夫様よりお話のあった、慶応義塾大学の校友会組織のネットワークは参考にさせて頂きます。慶応の交詢社の交流会や京都大学の水曜会などを念頭におき議論を重ねることも必要であると考えました。

*津覇車輌工業様があと13年で100年の企業実績と歴史を迎えられますが、社名より「車輌関連」が主流と推察いたします。そして良い企業の皆様と取引されている関連会社に恵まれ、信用ある会社に発展されています。直接お会いして意見を交わすことによりお互いの理解が深まり、新しい知見を持つことが出来ましてありがたく感じております。

*津覇様の会社経営や人生において、オールドパーとワインがお好な親交の深い知人を「私がファン」とお呼びされており、多様な人脈とご交誼に感心いたしました。

*津覇様の創業者からの伝承の卓話において、ちょっとした日常会話で、私が、先々2部上場をめざし頑張っていた時、『会社が大きくなったら、自分の会社でなくなるよ。』とのお話は、含蓄のある内容でとても肝に響きました。さらに会社経営と営業について、バランスのとれた考え方を学びました。

*参加者の自己紹介等から、「ご両親からの伝承」等の話題を拝聴し、会社の経営には教育者の資質も兼ね備えていらっしゃることに敬意を感じました。

【フリートーキング】

(司会)
 本日は、ご出席者の皆様より貴重なご議論を頂きましてありがとうございました。日本大学には特別な絆があるように感じられ、実際にお会いしてお話のキャッチボールをさせて頂いたことが有り難いことと感じました。さらに日本大学卒業生のご縁に感謝いたします。この卓話から頂いた「道しるべ」は、私どもだけが共有するだけでは、もったいないと考えておりまして、ホームページで公開させていただきます。昨日は、天皇陛下が即位を国内外に宣明された「即位礼正殿の儀」が厳かに執り行われました。日本大学も創立から130年を重ね、「自主創造」の教育理念が進化することが期待されていると考えます。さて、お時間になりましたので、閉会の挨拶を西倉副理事長よりお願いします。

 

(西倉副理事長)
 本日は、テーブルを囲み貴重な卓話形式の座談会にお集まり頂きまして誠にありがとうございました。内容は、車輌産業や溶接業界の話題で盛り上がりました。最初に大内理事長のお話の中にありましたが、個々の所属する分野は狭いと感じられ、広い視野を持つことが肝要であると考えておりました。その結果、いつもと違った分野の卓話をお聞きして、異分野との交流を重ねることにより、それぞれの皆様が所属する分野や事業の発展に繋がるものと認識いたしました。本日は、誠にありがとうございました。